目次へ戻る


江戸時代の藩政改革では上杉鷹山が大変有名であるが、この鷹山をはるかに凌ぐ真の改革者が備中松山藩にいたことはあまり知られていない。山田方谷(やまだほうこく)がどこで生まれ、どんな信念のもとにどんな改革をし、一生を終えたのか、一度この目でその地を見たいとの衝動にかられ、急遽千歳空港から岡山に向かった。2002年4月1日岡山は、どこも桜と桃の花が満開であった。


岡山市と鳥取県米子市を結んで、JR伯備線が中国山地を横断して走っている。岡山駅から出発すると1時間足らずで鄙びた小都市、備中高梁市に着く、ここが元の備中松山藩である。市街地の北のはずれにある海抜430mの臥牛山(がぎゅうざん)山頂には、国の重要文化財である松山城の天守閣がそびえ、街から一望できる。この松山城は日本で最も高いところにある典型的な山城として貴重な文化遺産である。

備中高梁駅から北に向かい3つ目の駅が人名駅として珍しい「方谷駅」である。山田方谷の人徳を敬い、その功績を讃えてつけられた駅名である。
武家屋敷、山の頂上に松山城の天守閣が見える 松山城の城壁から見た高梁市中心部
備中松山城(高梁市教育委員会提供) 自分で写した写真があったのですが手違いで消去してしまい、他のものを使わせていただきました。


次の山田方谷の文は、万延元年(1860年)河井継之助が松山を去るに際し、河井に請われて与えた「王陽明全集」の巻末に記した一節です。


    至誠惻怛(しせいそくだつ)
(この言葉は、後に高弟三島中洲が方谷の精神をこの四字を持って証したもの)



まごころ(至誠)と、いたみ悲しむ心(惻怛)があれば、やさしく(仁)なれます。そして、目上にはまことを尽くし、目下にはいつくしみをもって接するのです。心の持ち方をこうすれば、物事をうまく運ぶことが出来ると言います。つまり、この気持ちで生きることが人としての基本であり、正しい道なのです。


山田方谷の功績とその精神

藩政改革  方谷が元締役(今の大蔵大臣)に就任したときの1849年(嘉永2年)、松山藩は10万両(約600億円)の借金があった。そして年間の公債依存度は71%に及んでいた。藩主の板倉勝静より藩政改革の全権を委ねられた方谷の改革の柱は、一般領民を富ませることによって経済を活発にし、それによって藩が豊かになることを基本に置いた。そして、1857年(安政4年)方谷が元締役を退いた時、借金はゼロになり、10万両(約600億円)もの余剰金を抱える黒字にした。この他、贈賄を戒め賭博を禁止したり、学問所、教諭所、寺子屋、家塾など75ヶ所も造ったり、里正隊という農兵を組織化したり民政、教育、軍事等、藩政全般にわたり大きな改革に取り組みこれを成し遂げた。


このような改革の断行に対して、さまざまな抵抗があったが、これに対して方谷がとった行動は

@公明正大であること  高給を辞し、俸禄を中級武士並みにとどめ、収支をすべて公開した。

A率先垂範  藩士に農地開拓を督励した際、    自分が山間に移り住み農事に励んだ。


方谷の論文  「理財論」  財政理論
         「擬対策」  藩政心得


方谷はこの「理財論」の中で、財といえば数字にのみとらわれる事を戒め、財の外に立って、大局を視野に入れることの重要さを説き、賄賂や奢侈を厳しく排して、政治に厳正に臨むことが肝要であるとしている。

(理財論 抜粋)
それ善く天下の事を制する者は、事の外に立ちて事の内に屈せず。しかるにいまの理財者は悉(ことごとく)財の内に屈する。
(意味) 国家の経営にあたり、国家全体を正しく導いてゆける者は、胆識を持ち、大所高所に立った判断をするものだ。小さな局面での理屈や、目先の判断に惑わされる事はない。これを「事の外に立ちて事の内に屈せず」という。いわんや、様々なしがらみや、私利私欲に影響されるなどはあり得ない。それがどうだろう。最近の財務担当者は、すべて目先の経済問題にはまり込み、失敗を重ねている。
曰く、此れ古(いにしえ)の君子が義利の分を明らかにするを務むる所以なり。それ綱紀を整え政令を明らかにするものは義なり。饑寒死亡(きかんしぼう)を免れんと欲するものは利なり。君子は其の義を明らかにして其の利を計らず。ただ綱紀を整え、政令を明らかにするを知るのみ。饑寒死亡を免るると免れざるとは天なり。
(意味) ここにこそ昔の聖人が、天下の王道、道理道徳の道である「義」と、目前の利益である「利」の区別を明らかにしようとした理由がある。国家の基本を統一し、法を正しく誰にでも分かるようにする事は「義」である。飢えて死ぬ事から逃れようと願うことは「利」である。聖人はその道をはっきりさせるだけで、自分自身の利益を求めようとしないものだ。ただ、国の基本を明確に示し法を正しくする事だけしかしらないと断言している。餓死を免れるか免れないかは、天の行う仕事である。

慶応3年(1867年)10月14日、 江戸幕府第15代将軍徳川慶喜は、大きな決断で大政奉還を行う。大政奉還の建白書は、ときの筆頭老中であった板倉勝静などの幕臣が取りまとめたと言われているが、その起草者が山田方谷であったことはあまり知られていない。

山田方谷はすべての考え、行動の柱を誠意中心主義に置き、誠意をわが道と思い定めて道を貫いた。
山田方谷が数多くの政策を実践した精神的支柱は、「陽明学」であった。「致良知」と「格物」を2本の柱とした誠意中心主義こそ方谷の陽明学の真髄だと言える。

 「陽明学」「知良知」、「格物」については、次の項(作成中)で   取り上げます。    
街のあちこちで桜が咲き誇っておりました。
天柱山 安国頼久禅寺の正面石段
山城 備中松山城の全景模型
急な坂道をあえぎあえぎ登ってゆくと松山城の石垣が見えてくる。
松山城天守閣を支える石垣
高梁市中心街より臥牛山を望む


山田方谷年譜
西暦 年齢 事項
1805年 1才 備中松山藩西方村、現、岡山県高梁市中井町西方に生まれる。生家は農業のかたわら、油の製造販売
1809年 5才 5才で新見藩の儒者丸川松陰のもとで朱子学と陽明学を学ぶ
1825年 21才 藩校有終館で学ぶことを許される
1834年 30才 江戸で佐藤一斎に入門、塾頭もつとめる
1836年 32才 帰国し有終館学頭となる
1843年 39才 三島中洲が方谷に従学する
1844年 40才 世継の板倉勝静に講義する
1849年 45才 元締役(大蔵大臣のようなもの)兼吟味役を拝命
1850年 46才 藩政改革の全権が委ねられる
1852年 48才 郡奉行を兼ねる
財政建て直しに鉄,銅の事業に取り組み撫育局を設け産物の専売を行う
藩内の信用が下落した5匁札を焼却し、新藩札「永銭」を発行し信用を得る
1854年 50才 参政(藩の総理大臣)となる
1859年 55才 西方村長瀬の一軒家に移る
長岡藩士河井継之助来遊する
1862年 58才 板倉勝静老中に任ぜられ、江戸にて勝静の顧問となる
1866年 62才 徳川慶喜将軍職に就任
1867年 63才 大政奉還の建白書の原文を起草する
1868年 64才 戊辰戦争起こる
幕府軍の敗北で首席老中職の備中松山藩は朝敵となる
備中松山城を征討軍に開城する
1869年 65才 子弟教育につとめる
1871年 67才 明治政府の入閣要請を断る
1873年 69才 備前岡山藩の藩校閑谷(しずたに)学校で子弟教育につとめる
1877年 73才 没、西方村の墓地に葬られる

          参考文献 : 「山田方谷に学ぶ財政改革」 野島 透   明徳出版社
                    「財政破綻を救う理財論 山田方谷」 深澤賢治  小学館文庫
                    「炎の陽明学」 矢吹邦彦  明徳出版社